「いい子」と言われてきた私が、親になった。
何かができるから、すごいから、ではなくて。
どんなふうでも愛されていることを、子どもに伝えたいと思っている。
その思いの根っこには、かつての私自身がいる。
私は親になった。
子どもも私も泣いてばかりの乳児期を乗り越え、
たくさん身の回りのお世話に追われる幼児期を過ぎ、
子どもは自立への小さな小さな一歩を少しずつ、恐る恐る踏み出している。
子どもを追いかける日々の中で
「どんな人になって欲しいと願っているのか」
私は考え続けている。
「いい子」でいることで、安心していた過去の私
振り返ってみると、私はいい子でした。
実際、小学校高学年頃からの記憶では、親や学校の先生、近所の人たち、多くの大人から「いい子だね」と言われてきました。
勉強をやりなさいと言われたことはありません。
逆に勉強ばっかりして、もうやめなさいと言われていました。
でも、やめられなかった。
やらないでいると不安で、できるようにならないといけないって、自分で自分を追い込んでいました。
まわりが嫌がることを率先してやっていました。
これは全く苦じゃなかった。
むしろ安心していました。
「すごいね」「えらいね」そんな言葉が私を安心させてくれました。
認めてもらう努力や、がっかりさせない行動をとることが当たり前だと感じていた昔の私は、
とにかく失敗することや人としての評価が下がることが怖かった。
進んでそうしていたのか、褒められないと自分じゃないような気がしていたのか、
それは今でもわかりません。
自分を追い込んでいたことに気づいた、親になった今
親になった今、子どもの寝顔を見ていると思います。
あの頃の私、結構しんどかったなぁ……。と。
この子は、どんな思いで今を生きているのだろう。
のびのびと挑戦し、失敗に悲しみ、もう一度!と顔をあげられているのだろうか。
そして、私はその手助けができているのだろうか。
私はとっても生きにくかった。
人からどう見られるかではなく、自分がどうありたいか自分で考えて選べていたら。
結果よりも、やっていることそのものに価値を感じることができていたら。
もしかしたら、
ただの私
にこそ価値を感じていさえすれば、私はもっと楽だった……?
子どもに伝え続けたい、たったひとつのメッセージ
子どもにどんな人になって欲しいか。
それは、過去の私が教えてくれています。
今、私は子どもの「やってみたい」を子どもと一緒に楽しんでいます。
悲しんだり、悔しがったりした時はそばにいて、
熱中している時には見守って、
できた時には喜んで。
記念に写真もとったりして。
泣いても怒っても、失敗しても、
もちろん牛乳をカーペットにこぼしたって。
今日の夜も、寝る前に必ず伝えます。
「ただの私」に価値があると、信じてほしいから
どんなあなたも、愛してる。
コメント